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フローレンス・ナイチンゲール過酷な医療現場を改革!統計学について

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新型コロナウイルスの感染拡大が深刻なものとなっています。

特にイタリアでは爆発的に感染が拡大し、医療崩壊の危機に瀕しています。

原因としては、イタリアでは密接なスキンシップが好まれる文化があり、マスクを着用する習慣があまりなく、感染が広まりやすい社会的土壌があるからです。

集会の規制や移動制限などの政府の呼びかけに対して、あまり好意的ではなく、為政者の判断よりも自らの判断を優先するなど成熟し、自立した国民としての性質が裏目に出た感があります。

100年前の伝染病・スペイン風邪と第一次世界大戦

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イタリアの現状

イタリアの医療技術は世界的にも高水準ですが、近年の財政難の影響で、医療予算の削減が行われており、人件費削減のために病床数が少なく、医療器材や人材も最低限の水準で運営されてきたそうです。

さらに、国民の約30パーセントが高齢者で感染者の大部分が高齢者であることも致死率の上昇の原因と考えられています。

このため、不足する医師を補うために引退した医師や医学生を現場に送るなど医療現場は過酷を極めている現状。

死者があまりにも多く発生したため、葬儀社での対応が間に合わず、遺体を軍のトラックで運んだり、火葬が追い付かない状況になっている地域もあります。

さらに、患者の臨終に立ち会った司祭の感染も相次ぎ、中世のペストのようだとの声も上がっています。

歴史と世界情勢

医療現場の疲弊は各国でも起きており、アメリカは感染の拡大しているニューヨークとカリフォルニアに2隻の海軍の病院船が派遣され、工兵隊により臨時病院の設置や、予備役を含む衛生部隊を展開させています。

日本でも感染の蔓延した客船に続き、羽田・成田空港での検疫支援に自衛隊の衛生部隊が派遣されています。

辿ると、戦争と医療の関係は深く、かの医学の祖であるヒポクラテスは医師を志す者は軍に志願すべしといったとされ、現在の医療技術の発達の多くが戦争によるものが多くあります。

戦場では銃や砲弾による外科領域のものから、伝染病対策や兵士の健康管理のような内科領域のもの、さらに第一次世界大戦からは戦争神経症と呼ばれたPTSDに対応する精神科領域など幅広く、さらに、傷病者が大量に発生する災害医療の側面もあります。

今回は、そんな戦場の医療に数字で戦いを挑んだ一人の人物をご紹介いたします。

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フローレンス・ナイチンゲール

フローレンス・ナイチンゲール。

エジソンやリンカーンなどと並び、学校の図書館には伝記がある、定番の偉人の一人。

ナイチンゲールといえば看護学の祖と呼ばれ、白衣の天使のイメージがあるかと思います。

しかし、実際にナイチンゲールが戦場で看護活動に従事した期間は短く、2年ほどでした。

では、彼女はどのように歴史に名を遺すほどの偉業を成し遂げたのでしょうか。


経歴

フローレンス・ナイチンゲールは1820年に裕福なイギリス人の家庭に生まれます。

幼少期から様々な当時の女性としては高水準の教育が施され、複数の外国語や哲学、文学、経済学、天文学、地理学、美術のほか、のちの彼女の武器となる数学を身に着けていきます。

当時のイギリスは不況により、貧困問題が深刻なものになっており、隣国のアイルランドで発生していたジャガイモ飢饉による移民の増大など困窮する人々が街にあふれ、慈善活動に従事していたナイチンゲールは彼らを助けたいと看護の道を志します。

そして、1854年にクリミア戦争が勃発します。

南下政策を推し進めるロシア帝国に対して、オスマン帝国、フランス、そしてイギリスなどの同盟国がクリミア半島と主戦場として激突。

イギリスの参戦に伴い、看護団の派遣が決定します

当時、ロンドンの病院の看護長となっていたナイチンゲールはクリミア行きを自ら志願し、38人の看護団の長として戦地に赴きます。

前線後方の軍病院に到着した看護団でしたが、思わぬ敵と遭遇します。

れは、軍司令部の無理解でした。

当時の看護師の社会的地位は低く、現地の司令官は看護団が軍病院への入場を拒否し、あからさまに嫌悪感を表していました。

そこで看護団は病院のトイレの清掃や、衣類の洗濯などの管轄の所在があいまいな環境整備をおこない、病院の不潔さを解消しつつ、病院に潜り込もうとしました。

やがて、同盟軍がロシア黒海艦隊が立てこもるセバストポリ要塞への攻撃を開始すると大量の負傷兵が送り込まれてくるようになり、人手不足から看護団の本格的な活動がついに開始されます。


医療現場

当時の野戦病院での治療は凄惨で、もっぱら負傷した四肢の切断が治療手段であり、麻酔なしで行われるため、暴れる負傷兵を縛り付け、中には頭を殴りつけて失神させて行うことすらあったといいます。

このような中でもナイチンゲールは24時間以上連続で働くことの珍しくなく、2000人以上の臨終に立ち会ったとされます。

実際、彼女自身も過労で倒れ、その後の彼女の体をむしばんでいきます。

そんな過酷な中で、戦場での医療で重要ことは良好な衛生状況を維持することであると考えるようになります。

クリミア戦争終結後、帰国したナイチンゲールは、野戦病院の環境改善のための活動を始めます。


統計学

まず、戦闘状況や野戦病院に関する膨大な報告書を分析します。

そして、幼少期から得意であった数学と統計学を用いて、兵士が全線で死亡する確率よりも負傷して収容された野戦病院の方が死亡率が高いと分析しました。

その原因として、病院内に衛生状況の悪さ、過密な病床、医薬品等の物資の不足、効率の悪い病院運営があげられました。

この報告書「野戦病院での死亡統計」は議会に送られ、鶏冠グラフなどのグラフ多用し、統計学になじみのない議員にもわかりやすくなっていました。

また、衛生管理に無理解な軍上層部や縦割り行政を痛烈に批判。

もっとも、この報告書のグラフ等は意図的に彼女の主張の正当性を強調するようなに見せ方をしており、現代のマスコミが行っている数字を使った情報操作の原点とも言えます。

このような努力が実を結び、野戦病院だけではなく、イギリスの病院全体の衛生環境の改善や看護学の確立、看護師の地位向上につながっていきます。

また、彼女の看護活動に感銘を受けたスイスの銀行家のアンリ・デュナンは国際赤十字社を設立し、戦争に限らずあらゆる災難に直面した人々を助ける活動を開始するきっかけとなります。

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まとめ

クリミア戦争従軍後の彼女は精力的な活動とは裏腹に従軍時の過労から体調を崩し、人生のほとんどをベッドの上で過ごしました。

しかし、数字とゆるぎない信念で戦い、社会を変えていきました。

現在でも、看護学校の戴帽式では野戦病院で彼女がろうそくを手に負傷兵の様子と見て回っていたことから、ナイチンゲール像から火を自らのろうそくにともし、宣誓する儀式が行われています。

彼女の精神を見習い、今の過酷な医療現場をみんなで支える心を持ちたいと考えます

ご訪問ありがとうございました。

世界の伝染病とトンデモ治療法の歴史について調べてみました。

 

 

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